2005年夏の旅(14-15-16) トリエステ&帰国 [2005夏2 ペーザロ、ザルツブルクから北伊への]
8/31 Trieste
今日が今回の旅の最終日です。トリエステは初めてでしたが、下調べでは丘の上にロマネスク様式の教会があるとのことで、まずはそのサン・ジェスト聖堂を目指しました。この街で中世の面影の残る名刹として知られています。結構傾斜のきつい道もあり、それほど暑い日ではなかったのですが最後は汗だくになって辿りつきました。
この教会はロマネスク様式の2つの教会を合体して1300年代に再建。正面の大きな白大理石の薔薇窓(13世紀)と左に建つ堅固な鐘楼(14世紀)が印象的でした。内部は複雑な5身廊という構造になっていて、彩色された船底天井(16世紀)が美しく、5世紀の床モザイクや12世紀のフレスコ画も残っています。
↓ 左後陣の半円蓋には聖母と2人の大天使&下に使徒たちが並ぶ12世紀のモザイクがあります。
↓ Benedetto Carpaccio作の絵画「聖母子と諸聖人」(1540)あのVittore Carpaccio(1460~1526)の息子なのでしょうか?作風はヴィットーレに似ています。
↓ 聖堂の周りは古代ローマの遺跡の並ぶかなり大きな広場です。
カステッロもここから階段を上ったところに入口があり、行ってみましたが、張り紙があり修復中?閉められていました。
↓ 広場からはトリエステの港が一望です。ここから坂を下りて行きますと
↓ 坂道の途中に小さな教会が建っています。
サン・シルヴェストロ小聖堂 Trieste
この教会はサン・ジェスト教会を目指してせっせと坂道を登っていたとき、偶然途中で見つけました。上の写真は後背部、↓ 側面に鐘楼を持つ扉口
起源は11世紀ですが、後世の改築を経て1920年代にロマネスク様式の建立当時の外観に復元されました。↓ 正面バラ窓の素朴で可憐なファサードや石の古い質感が気に入りました
内部は小さな聖堂らしく、特に見るべきものもない質素な3廊式ですが、古風さがなんともいえなく好ましい空間でした。丘の中腹にあるこの教会の正面からトリエステの街を眺めました。この港町の歴史の変遷が、サーバがうたった都が見えるようでした。「多くの悲哀と美しさを、空に、街に持つトリエステには山の通りという名の坂道がある」
ここから古代ローマ劇場までのトリエステの坂道を下りながら、ここで旅の終わりを迎えたことが一層感慨深く、思われました。意図したわけではなかったのですが、この旅では須賀敦子のゆかりのある町々を訪れたということに気がつきました。ご主人がウーディネ出身だったようです。ウーディネの教会で挙式、新婚旅行がアクイレイアとグラードだったとか・・・。
↓ 古代ローマ劇場 中は見学できないようでした。この近くに今は博物館になっているシナゴーク(ポーランドのアシュケナジムの典礼)があったそうですが、普通のオフィス街の雰囲気でした。丁度昼休みの時間になり、オフィスから会社員たちがどっとでてきました。
↓ 大運河の近くまで歩き、橋の上の銅像はサーバかと思ったらジェームス・ジョイス。アイルランド人のジョイスがなぜ?英語教師として10年間この近くに住んでいたそうです。碑文には「わが魂はトリエステにあり」と記されています。
トリエステはカフェ文化が盛んと聞いていましたが、探すのも疲れて適当なお店に入ったらちっとも美味しくなくて…大失敗。ホテルに戻る途中で、素敵なカフェを見つけてショック。。。
↓ イタリア統一広場(ウ二タ・ディタリア広場)の近くにヴェルディ市民劇場。いつかここでオペラを観る日が来るのかしら?
ホテルで休憩の後は美術館を求めて外出。トリエステには生憎これといった美術館がありません。それにあまり遠くには行けませんので、徒歩数分のレヴォルテッラ博物館へ。19世紀のレオ・ルネサンス様式の建物に古典的な調度品、ヴェネチア派(無名の)の画家の作品が並べられていました。特別展は
Vittore Carpaccioの洗浄したばかりの作品が展示されていました。洗浄する前の実物大の写真ではかなり汚れて、カルパッチョと判別するのも難しいほどですが、綺麗に蘇った作品は素晴らしく輝いていました。絵葉書もなく、メモも紛失してしまって詳しく書けないのが残念です。カメラも禁止でした。
夕食はホテル内のレストランへ。あまり食欲もなく、パスタとデザートだけいただいて、翌日の長旅のため早めに就寝。
9/1 トリエステの空港から飛び立った飛行機はヴェニスの上空を低空飛行・・・その赤い屋根瓦の連なりと運河の流れるさまの美しいこと!
このあとはまったく記憶が薄れています。ミラノ経由で順調に帰国できたと思います。いつだったでしょうかJALのシステムトラブルでミラノからの便が遅れ、成田では札幌便に間に合わず、羽田で一泊して帰宅したということもありました。
古い旅の記録を残したいと思いついたのは良いけれど・・・この旅はペーザロとザルツブルグでの写真がないのが致命傷でした。やはり写真は大事ですね。(終)